月に一度のお参り。三筆の一人を祀る橘逸勢神社へ
今日は、浜松市浜名区三ヶ日町にある橘逸勢神社(たちばなのはやなりじんじゃ)へお参りに行ってきました。
この神社には、月に一度くらいのペースで足を運んでいます。
普段、筆で文字を書く仕事をしている私にとって、書の歴史に名を残した人物が祀られている橘逸勢神社は、特別な場所でもあります。

静かな場所にある小さな神社
橘逸勢神社は、観光客でにぎわうような大きな神社ではありません。
周囲も静かで、落ち着いてお参りができます。
境内には桜やイチョウの木があり、季節ごとに違った景色を楽しめます。柑橘系の木も植えられています。
橘逸勢の「橘」にちなんだものなのか、それともミカンで有名な三ヶ日という土地柄なのかは分かりませんが、境内の雰囲気によく合っています。
今回も、日頃筆を持って仕事ができていることへの感謝を込めて、手を合わせてきました。

橘逸勢とはどのような人物なのか
橘逸勢は、平安時代初期に活躍した人物です。
書に優れていたことで知られ、空海、嵯峨天皇とともに「三筆」の一人に数えられています。
若い頃には遣唐使の一員として唐へ渡りました。
同じ遣唐使には、空海や最澄も参加しています。
橘逸勢は唐で書や学問を学び、帰国後は、その優れた書の腕前を高く評価されました。
ただ、橘逸勢が書いたとはっきり確認できる作品は、現在ほとんど残っていません。
有名なものに「伊都内親王願文」がありますが、こちらも本人の筆と断定されているわけではなく、一般的には「伝・橘逸勢筆」とされています。
三筆の一人として名前はよく知られていますが、実際にどのような文字を書いていたのか、まだ分からない部分も多い人物です。

なぜ浜松に橘逸勢の神社があるのか
京都で活躍していた橘逸勢が、なぜ浜松市三ヶ日に祀られているのか。
その理由は、橘逸勢の晩年にあります。
842年、橘逸勢は「承和の変」によって、謀反に関わった疑いをかけられました。
その後、伊豆へ流されることになり、護送される途中で病に倒れます。
そして、現在の三ヶ日町本坂付近で亡くなったと伝えられています。
橘逸勢の娘は、父の後を追ってこの地まで来ました。
しかし、到着したときには、すでに父は亡くなっていたといわれています。
娘はこの地に父を葬り、その後は尼となって、父のそばで菩提を弔い続けたそうです。

橘逸勢が通ったとされる姫街道
橘逸勢神社の目の前には、姫街道があります。
江戸時代には東海道の脇街道として使われていましたが、それよりもずっと前から、人々が行き来する道だったとされています。
伊豆へ向かう橘逸勢も、この道を通ったと伝えられています。
今では車で通ることの多い場所ですが、当時はもちろん徒歩での移動です。
体調を崩した状態で、どのような思いでこの道を進んでいたのだろうと考えると、その長さや険しさは、今の私たちにはなかなか想像できません。

唐の三大家、三筆、三蹟
書道を学んでいると、橘逸勢の「三筆」のほかに、唐の三大家や三蹟という言葉も出てきます。
どれも有名な書家を三人挙げた呼び名ですが、活躍した時代や国が異なります。
唐の三大家は、中国の唐の時代に活躍した、
- 欧陽詢
- 虞世南
- 褚遂良
の三人です。
三人とも楷書の名手として知られ、現在の書道にも大きな影響を与えています。
書道のお手本で、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」や、褚遂良の「雁塔聖教序」を見たことがある方も多いのではないでしょうか。
そして、日本の平安時代初期を代表するのが三筆です。
- 空海
- 嵯峨天皇
- 橘逸勢
この時代は、中国から伝わった書の影響が強く残っていました。
橘逸勢も唐へ渡り、本場の文化や書に直接触れています。
三筆よりも少し後の平安時代中期に活躍したのが、三蹟です。
- 小野道風
- 藤原佐理
- 藤原行成
三筆の時代には中国風の書が中心でしたが、三蹟の時代になると、日本らしい柔らかな書風が発達していきます。
簡単に分けると、
唐の三大家は中国の楷書を代表する書家、三筆は平安時代初期、三蹟は平安時代中期の日本を代表する書家
という違いがあります。
それぞれを別々に覚えるよりも、唐の書が日本へ伝わり、そこから日本独自の書へ変化していった流れとして見ると、分かりやすいかもしれません。

書に関わる者として、これからも訪れたい場所
橘逸勢が生きた時代から、すでに千年以上がたっています。
それでも今なお「三筆の一人」として名前が残り、この地で大切に祀られていることを思うと、文字を書くということの奥深さを感じます。
今回も静かにお参りをして、神社を後にしました。
また来月ごろ、仕事のご報告も兼ねて伺いたいと思います。

